初代孫次郎(幼名糸吉)は、旧坂井郡鷹巣村松蔭区の孫左ヱ門の長男として、
文化6年2月16日に生まれましたが、幼少の頃より分家することを理想としていました。
天保5年8月1日、22才でわずかの田畑と日常品、仏具を譲り受け、実母及び弟岩蔵を伴い分家し孫次郎と改名しました。
家は和布永見大順の家を買い求め現在の松蔭町3号1番地に建て、当地、勝明寺より土蔵を買い求め塩魚を加工し、
長橋とみの浦より2名を日雇いし、敦賀、三国間を小舟にて航海し、魚の売買で生計をたてていました。
翌々年、天保7年から8年にかけて米穀の不作が続き物価は高騰し、飢死する者も全国で多く出ました。
これが三大飢饉として有名な「天保の飢饉」と言われるものでした。
当地でも亀島の松、五尺廻り、八尺廻りまで、66本を売り払い、
その代金は当家外2名を除き分配し生活にあてた状態で、この時、共に助け合って来た弟も23才の若さで他界。
その後は孫次郎1人で母を養い、家業を営まなければならなくなり苦しい毎日が続いたようでした。
そのような状況の中で25才の時、当区孫左ヱ門6女「いと」と結婚しました。
そして飢えを乗りこえるため田の開墾と本業の漁業に取りくみ、食べんがために必死になって働きました。
ようやく飢えも乗り越え、これからと言う天保11年9月23日に当区彦平より出火し、
当家作業場など全焼し、どん底につき落されました。
しかし生来負けん気の彼は、翌12年四ヶ浦よりかやぶき1棟を買い求め、作業小屋などを再建しました。
その後も数回の暴風雨等で漁船を失ったこともあるが、努力し続けて嘉永6年、5人頭の役をもらうまでになりました。
文久2年2月、長男初五郎と本家孫左ヱ門5女「ゆう」が結婚し、危険の多い小船運搬業を廃業し、漁業と魚加工を中心に計画をたてるようになりました。
しかし長男初五郎は31才の若さで病死し、その頃より安定した職業を求めて醸造業の開業を決意しました。
その後、明治6年5月頃までに土蔵などを新築しました。
一方、長男死亡のため、4男乙五郎に家督を相続させニ代目孫次郎を襲名させました。